昭和45年8月8日 朝の御理解



御理解 第100節「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」

 皆んな金光様の信心を頂いて、いよいよ枝も栄える葉も茂るという、めでたいおかげになってこなければならん。金光大神は他のことではない、只氏子の幸せ、氏子の幸福を願ってやまれぬということが分かります。
 天地の親神様は、人間が真実、幸福になってくれるということだけが願い。他に、そういう願いはない。子孫繁盛であり、家繁盛である。
 そこで、そういうおかげを、頂きたくないという者は一人も居なかろう。子孫も繁盛しなければならない、家も繁盛しなければならない。
そこで、私どもが分からせて頂かねばならないことは、枝も栄える葉も茂るということは、ただ、空に枝がさかえたり葉が茂ったりするのじゃない。それには幹があり、やはり根があってのことだということ。してみると、その根本は、根であることが分かる。ですから、金光大神は、根を大事にするということを教えておられるということが分かる。
 後理解五十節に「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもほとりでに物ができるようなものぞ。」と。
 常日頃の信心が切れたり、または、虫が付いたりしたのでは、枝葉がしこることはない。いわゆる子孫繁盛家繁盛の元である枝も栄える葉も茂るというその元である、その根というところを、大事にしなければならん。
 今日は、初めと中と最後のところを頂いております。後理解第百節は、教典の一番最後のところ。最後のここのところが、私どもが願うて止まないところなのです。それには、やはり初めがある。いわゆる、初めのところがあって、一番最後のところがあり、それにはその中身がある。中身を、私は丁度後理解の真ん中である五十節と頂いた。
 その初めのところは、どういうところかというと、立教神伝である。そのおしまいのほうに「氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く。」と、ここにも、やはり氏子繁盛いたしというにが有りますねえ。
 ですから、金光教の信心で言う繁盛というのは、親子が共どもに助かっていく、親子が共どもに繁盛していかなければ、本当の繁盛ではない。
 昨日からの後理解頂いても、やっぱり、そう、神も喜び、金光大神も喜び、氏子もの喜びじゃという、そういう喜び、そういう内容を持ったおかげでなければならないということでしたねえ。
 それがどうでしょう。親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行くというおかげ、その繁盛の根本になるものは、枝葉が栄える葉も茂るというではないかと、金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えると、その道は、どこに、いつも焦点が置かれておるかというと、その根本、根のところにその願いが置いてある。
 ですから、後理解五十節の「とかく、信心は地を肥やせ」ということになる。ただ、枝葉の栄えることだけを願う、商売なら商売が、繁盛いたしますようにということだけを願うということは、大変不合理だということが分かります。おかしいということが分かります。
 どうぞ商売繁盛だけのことではない、様々なることが、物毎が成就していくことの願いを立てる。立てるからには、やはり、どうぞ繁盛いたしますようにという願いの根本というところを、知っておかなければならん。いわゆる、私が改まりますから、私が研きますから、私が精進いたしますからということになるのです。そこのところが根本になる。
 私どもが願って願って止まないのは、枝葉の栄えるおめでたいおかげである。それには、私どもは、神様が今度は願って下さる。それには、地を肥やせと根を肥やせということになる。
 だから、今日は「根賀以に徹する」というところに焦点をおいて、お互い信心を進めていこうということなんですけれども、そういう内容というか、そこのところに根を置いての願いでなからねばならん。
 只、一生懸命に参って拝んでおるということだけではない。一生懸命参って拝ませて頂くということの、その内容が根を肥やすということに焦点を置かれなければならん。ですから、まあいうならば枝葉の栄える繁盛、いろんな願いが成就するということを願うことよりも、結局とにかくに信心は根を肥やせとおっしゃる、地を肥やすることを願う。根を肥やすことを願う。そこにはもう、ひとりでに肥をせいでもものができるようなものであろうと、こうおっしゃる。おかげが頂けてくる訳なんです。
 昨夜、総代会で皆さんに聞いて頂いたことなんです。けれどもね、私がね、どうでもこうでもおかげを頂かにゃいけん。神様の願いというか、合楽にかけられておる神様の願い、そういう願いを受けて立たせて頂く為に、やはり、総代さん方の信心が、いよいよ合楽の総代にふさわしい総代としての信心を身につけていかなければいけない。
 それにはね、総代に続け総代を見習えといったような、信心をいよいよ身につけてもらわなければならないというて、昨日の朝からの後理解を参考に話させて頂いたんです。
 昨日の後理解を頂いて、昨日は丁度伊万里の竹内先生がお参りでした。昨日の後理解を頂かれてその後に、本当に今朝の後理解の通りありますというてお話をされるのに、私は先日から、ある書物を読まして頂とりますが、これは大変難しい御本らしいのですが、その中に著者が述べておりますことは、人間がね、例えば分かりやすく申しますと、素直になればね、まあだ四分の一しか、信心の言葉でいうとおかげを頂いてないということ。
 人間は、例えば百のおかげを頂けるようにできとるのをです、二十五しか頂ききらずに終わっていく者がほとんどだと、これは学問の上からみてそういう風に説明しとるそうです。人間はまあだ百幸せになっていい訳です。皆んな、ところがね、その四分の一の二十五しか頂ききらずに、一生を終えておるのだそうです。その原因がどこにあるのかというとね、否定するからだ、自己否定をする。お道の信心は、否定もなければ肯定もないということなんですが、ですからこれは、信心を抜きにしたもの、ですから信心をさせて頂いて、否もなからなければ肯定もないというようないきかた、いうならどういうことになりますか、 これで済んだとは思いませんという、いわば教祖金光大神の生き方なんです。
 神様に対する心をですね説明すると、これで済んだとは思わんというのが、金光大神のいつもの心の状態でおありになる。どれだけいっぱしの信心をしておっても、こうこれ以上のことはできまいと思おても、***というような信心でも修行でも、出来ておってもです、そんならこれで済んだとは思うておられないところ、そこにいつも平身低頭というか、実意丁寧がそこに自ずとそういう風が生まれてくるのです。
 私はこれだけのことをしてあげよりますよ、これだけのことをしよりますよというところには、もうそこに肯定しておる、だからそういう意味でね頂きますとね、竹内先生が昨日説明して下さったそのことを、例えば人間は、百だけは幸せになれるのではなく、もう無限限りなく幸せになって行けれる。
 もう百ではなければ五百でもない、千も万もというおかげが頂かれる。それを私は、信心によって御神徳を受けた人の姿であると思います。だからこれを、信心がなくても百だけは幸せにならなければならないのに、人間が二十五しか頂けずにこの世を終わっているにだと、それは人間が素直じゃないから、これは信心が無い者の姿ですよ。これはまあだ、学問的に大変な説明が加えられてあるに違いないですけれども、そこの学問のところは私どもには分かりませんから、昨日の朝の後理解頂いて、竹内先生のお話を頂かせてもろうて、なるほどそうでしょうなあ、信心を少しでもばっかり頂かせて頂いても、分からせて頂くことは、それこそ、「素直にて雲の上まで昇る道がある。」といわれる位です。限りないおかげが受けられるのです。
 そこでそんなら金光大神、今日私が申しているます、お互いがめでためでたの若松さまよ、枝も栄える葉も茂るというようなおかげを誰でも頂きたい。願っておる、だからというて、そんなら、どうぞ家繁盛子孫繁盛をお願いしますというただけでは、それは丁度空のようなものである。枝葉が栄えるおかげが頂きたいならば、その根を大事にしなければならないぞと、例えば、教えて頂くならばです、それをそうだなあと頂かにゃいけん。なる程枝葉の栄えるおかげを頂くならば、まず根を肥やさなければならない。なる程常平生に地を肥やしておかなければいけないなあ。地を肥やしておけば、ひとりでに者が出来るようなもんだなあと、私は合点しなければいけないと思う。
 それに、例えばそういう風に合点せずに、只々家繁盛子孫繁盛商売繁盛のことばかり、自分のお願いばかり述べたんでは、それはおかげにならん。
 それは、勿論お取次のお徳によっておかげは頂きます。けれども、それでは本当の子孫繁盛家繁盛にはつながらない、いわゆる立教神伝にありますように「神も助かり氏子も立ち行く」ということになってこない、末々繁盛ということになっていない。「氏子繁盛致し末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く」ということになってこない。そこのところをです、私どもがひとつ分からせて頂いて、いわゆる素直にそうだなと。そこで私は、昨日も御理解が済んだ後に皆さんに申したように、昨日は、源頼光という字を解釈しての御理解でしたでしょう。もともと信心ということは、頼むことから始まるのだと、けれども頼んだだけではならない、それが光にならなければならない。ところがほとんどの人は、源頼というところ迄いって、光になっていない。本当を言うたら金光大神は、その光を取り次いで下さるのだというような御理解でしたでしょう。だから、願うということにはです、必ず光が伴のうておるようなおかげでなければ、いわゆる今日の焦点でありますところの「根賀以に徹せよ」と、いわゆる賀びを以て根とする根賀以、いわゆる源頼光なんです。
 頼むことでわあるけれども、その頼むということの内容はどこまでもです、賀びがその内容としてなからなければならない、光を頂くための根賀以、いわゆる神の喜び金光大神も喜び、勿論願わしてもらう。私ども自身も喜べれるようなおかげの頂かれる内容を持ったものでなからなければならんということになる。
 昨日も私、竹内先生のお話を頂かせてもらいよる時に、なる程そうだなあと、してみると、私が昨日熊谷さんと話したもとを申しますのに、本当に世の中の難儀な氏子の一人一人に、皆んなが難儀ではない、人間はこの位な苦労するのは当たり前のごとなってしまって、もう麻痺してしまっておる。難儀が、もうこの世は苦の世苦の世界だと諦めてしまっておる。そういう人達の眼をさまさせて、私どもが頂いておる。このおかげをです、この喜びをね、なんとかして伝えてあげなければおれないような気が致しますねと、こういうようなですね、いわゆる働き、または働きかけというものをさせて頂かなければおられない。
 竹内先生のお話を聞かせて頂いていよいよです、人間がまあだこれより信心はなくてもその気にさりさえすれば、まあ三倍だけはね、まあだ二十五しか頂いていないのですから、まあ七十五だけは幸せになれれるものを頂いている。その為にも皆さんがですね、それは学問的にでもそういうことを説明して下さって、世界中の人類人間氏子にです、そのことを徹底させれるような運動を起こさなければいけないなあ、展開して行かなければいけないなあ。いわゆる、私が今年に入って申しておします和賀心運動なのである。
 これがいかに大切であるか大事であるかということが分かれば分かる程、私自身が和賀心になることに焦点を置かなければならないということが分かるのです。しかも、竹内先生の読んでおられるお書物の中からはです、後七十五だけは頂けるのであると説明してあるけれども、信心はいわゆる否定もなく肯定もないと、いわゆる無限ということ、限りのないおかげに出れるという道なのだ。
 いよいよ家繁盛子孫繁盛、限りなく親の代より子の代というように繁盛していけれる道なんだ。だから、その道を体得する、その道を体得するところの根本になるものが根である。いわゆる心である。家でいうなら先祖である。
 そこのところを大切にさせて頂いておかげを頂いていくということがいかに大事であるか、そこんところを本当に素直にです、そうだなと本気で、そんなら和賀心になることの為にです修行をいとわない、油断をしたらすぐ後戻りをする、なる程日参りも夜参りもやはりそのことのための日参りでなからなければならないな。お話を頂くというても、根を肥やすためのお話でなからなければならんなということが分かります。
 無限大のおかげにつながっていくことの為にいわゆる横八である∞、それこそお腹がよじれるような腹の立つこともあろう、悲しいこともある。
 けれども、そこのところを生神金光大神の御取次を頂きながらです、そこをいわゆる信心辛抱させて頂いて、無限大限りのないおかげにつながっていこうということこそがです、私は「めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂る。」ということではなかろうかと思う。
 金光大神はそのことだけを教えておられる。また、そうあってくれよと願うておられる。いうなら神が与えたいもとを十分に受けてくれよ。これは、信心の無い者にでもそうなんです。まあ、七十五受けられる、そこに私どもが信心のいわゆる開眼のおかげを頂いて、百どころではない千どころではない限りのないおかげ、それを御神徳という。御神徳を頂けば、それはあの世のも持っていけれるこの世のも残しておけれると、そういうものかなあと素直にそれを合点する。
 子どもの可愛くない者はありません。子孫がどうでも、もう私の時代で良か後はどうなったちゃかまわんというような親はあるまい。そんならそこのところを本気で、もちっと真面目に本気で考えてみなけりゃいけん。そして金光大神が、いわゆるあの世にも持っていけこの世にも残しておけるものを、私どもは頂いておかなければならないということになります。
 その道を金光大神は教えるのじゃと、教えておられる。金光大神は、ひとっつも難しいことを言っておられない。とにかく人間のいわゆる真実の幸福、それは難しい宗教がありますよ、けれども金光大神はそのように容易う教えておられる。そして、私ども人類全てがです、それを願わない者はない。いわゆるそういうおかげを願っておるもの、そういうおかげを与えとうてたまらないもの、それが合い寄る、それをお取次して下さるのが金光大神。
 神様はいうならばです、信心が無かっても素直になりゃ百頂けるけれども、信心によっていよいよ、めでたいめでたいというような、しかもそれが子孫繁盛につながっていくようなおかげを神様は下さりたいと願うておられる。それを持っておられるのが親神様なのです。それを頂きたいと願うていられるのが私どもなのです。
 だから、金光大神のお取次を頂かなければ、素直に頂かなければならない。只おかげを受けたい者やりたい者が、合い寄っただけではならん。やむにやまれN思いでそういうおかげを頂きたいというても、おかげを頂かなければ。何かがここに障害になっておるということをまず悟らして頂いて、金光大神が教えて下さる道、いわゆる子孫繁盛の道をです、その道が分からないところに、そのおかげが受けられないということを、素直にそのことを肯定していかなければいけない。合点していかなければいけない。
 今日は教典のおわゆる一番初めのところ、氏子繁盛してということ。「氏子繁盛し、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く。」
 あいよかけよで立ち行こうという神の願いを、それを真正面まら私どもが受けきっていかなければならない。昨日の御理解から言うと、神様も喜んで下さり金光大神も喜んで下さるというおかげを正面に頂いてです、それがそのまま家繁盛につながっていくことの為の、いわゆるその道とは、丁度御理解五十節のところにあります「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに者ができるようなものぞ。」というところ。 ここはすでに無限限りのないおかげにつながっていく程。大地というものは、もう昨年こがしこやったから後はやらんというものではない。種さえ捲いてゆけば、もう限りなく無限に与えて止まないのが大地なんだ。ですからそれには、そんなら私どもが根肥やしを怠ってなならない。地を肥やすことを怠ってはならない。その根を第一の根として、私どもは心だという、家の根は先祖だと、そこんところが生き生きとしてくる。私の心が生き生きとしてくる。
 ゆうべ総代会で、森部の高山さんが発表しておられます。先日からお夢を頂いた。私どもが、合楽に御神縁を頂いておる者がねこの飛行機にのれれるというそういう権利をもっておる。その飛行機は何処を目指して行くかというと、朝鮮であり京城であるということである。ところが主人がもう行っちゃくれるなと言うてすがっておるというなお知らせであったと。乗り物はお徳とおっしゃいますから、合楽という飛行機に、合楽に御神縁を頂いておる人は全て乗れる資格がある、権利がある。だからこれに乗らせて頂く行き先は何処かというと朝鮮である。朝鮮とは朝の鮮やかさと書いてあるでしょう。いうなら皆さんが朝参りをして、心がすがすがしいまでに、麗しゅうなっていくということ。今日もこれでいったらという、そういう心なんです。
 京城とは、恵城と頂かねばならんだろうなというて話したことでした。神様が恵んでくださる城、そこへ目指させて頂く。いわゆる今日のめでためでたというところを目指さなければいけない。
 日々が本当におめでたい有り難いおかげの頂けれる、しかもそれが、神も氏子も金光大神も喜んでくださるというようなおかげにつながるというおかげ。
 まあそういうことを申しましたけれども、そういうことのひとつひとつを、ああそうだなあとですね、それを皆さんが合点してくださる素直さというものが必要だということ。
 それがね、もう七十五点はおかげを頂けるということになるのです。それがね高じて、いよいよ信心になり、いよいよそれが神徳に迄なって参ります時にです、それはもう五十でもなければ百でもない、千でも万でもない、もう無尽蔵限りなく頂けるおかげの世界が展開してくる。それを私は、百節ではそういうことを教えられていると思うのです。
 ですからもう金光大神は、そのことだけしか教えておられない。金光大神はそういう、家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと言うておられる。だから、どうでも道を習わせて頂いて、どうぞこの事が成就しますようにというだけなことは、枝が栄えますようにということと同じなんだ。枝が栄えますいう願いを持っておる。そんならば、どうあらなければならないかというところをです、しっかりそこを踏まえての信心をさせてもらわねば、いわゆる、足が地に付いた信心でなからなければならないということですよね。どうぞ。